礼拝
友納靖史
常盤台バプテスト教会 2026.3.29 棕櫚の主日礼拝 ヨハネ福音書講解㉞「愛の香りはどこにでも」友納靖史牧師【ヨハネによる福音書 12章1~19節】(新共同訳 新約P.191~192)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏 第二礼拝”Were You There?" ホザンナベルクワイア
招詞 ゼカリヤ書 9章9~10節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生232番「カルバリ山の十字架につきて」
主の祈り
献金感謝
聖書 ヨハネによる福音書 12章1~19節
特別賛美 ”私のもとに来なさい” 聖歌隊
宣教 ヨハネ福音書講解㉞「愛の香りはどこにでも」 友納靖史牧師
祈祷
賛美 新生652番「ナルドの壺」
頌栄 新生669番「みさかえあれ(B)」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 今日は「棕櫚(しゅろ)の主日」、主イエスが十字架で犠牲となる苦難の道を歩み出すエルサレム入場の日です。エジプトの奴隷生活から解放され、約束の地へと向かう神の民が苦難を過ぎ越したことを祝う「過越し祭」を祝うため大勢の人々がエルサレムへ押し寄せていました。この時、ラザロを死より蘇らせた評判を聞きつけた人々は、ダビデやソロモンのような権威と武力で国を治める長年待ち望んでいた王を期待し、イエスを歓迎したのです。そこで、手と手になつめやしの枝を持ち「ホサナ」と叫び続けます。これは詩編の「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。祝福あれ、主の御名によって来る人に…(118:25,26)」と歌われる、「ホサナ」つまり『主よ、どうか今すぐ、救ってください』との魂の叫びです。人々はそれまでの主イエスの業と言葉に触れ、この方はただ者でないと感じ、歓喜の声を上げたのは間違いありません。
しかし主はその時、王として勇壮な馬に乗って入場されませんでした。主イエスは「ろばの子を見つけて、お乗りになった」とヨハネは語ります(12:14)。他の共観福音書では先にろばの子を探して乗り進んだと記しました。しかし主は弟子達と徒歩で入場後、群衆の的外れな歓声を聞き、子ろばを探して乗られたと。何故主が勇壮な馬ではなく弟子たちは最初、理解できず驚き戸惑いました。けれども主の十字架と復活を通し、苦難の僕として仕える救い主であったと目が開かれます。かつて預言者ゼカリヤがこの出来事を預言(9:9)していたことを主はご存知であったこと(ヨハ12:15)、歴史を司る神が群衆の心と魂を揺り動かし、預言通り、神のみ旨が実現していく驚きをヨハネは明記しました。
もう一つの重要な出来事。それは前日の土曜、主がベタニアの村でラザロとその家族を再び訪ねた時の事もヨハネは特記しました。それは他の福音書(マタイ・マルコ)では、高価な油を注いだ女性は特定されていません。ですが彼はそれがラザロのきょうだいで給仕するマルタと共にマリアこそがあの高価なナルドの香油を惜しげもなく主の御足に注ぎ、主の葬りの備えをしていた人であったと告げるのです。初代教会では、この油注ぎの出来事はあまねく語り継がれていましたが、その人が誰なのか不明でした。しかしながら、その人こそ、兄弟ラザロを死から命へと移された喜びと感謝から溢れ出た行為であったことを宣言したのです。
二つの物語を対としてヨハネが語った理由。それは、表面的な事柄だけを見て行動する私たちに、計り知れない神の働きに一人ひとりが導かれ、歩んでいると宣言します。主イエスがなぜ見栄えのしない子ろばに乗って入場されたか理解できなかった弟子達。更にユダだけではなく、「別の用い方があったであろうに」と心の内に裁き心を抱いた人々たち。その批判は確かに正論です。しかし神の霊に導かれ、行動する人に敬意を払い、その時にしかできない信仰の決断があると語りかけます。
マリアが高価なナルドの香油の壺を割って主イエスの足に注いだ時、ユダと共に多くの人々の心に苦々しい思いが湧き溢れました。けれどもその部屋の中には、芳ばしい香りが辺り一面に広がり、それは単にナルドの香油自体の香りだけではなく、マリアの行為を主が喜び、彼女の信仰を神が導かれたことを宣言する真理の言葉こそが香ったのです。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから・・・」。そうです主はこの直後、ユダを含め人間全ての愚かな罪を担われる覚悟を持って十字架への道を歩まれた主の愛と、先を見通す言葉こそ、人々の人生に神の愛と救いが永遠に香り、ここにも届いています。私たちも沢山の芳しいみ言葉の油を神から授かってきました。それを入れた壺を私たちも、今必要としている世界中の人々に注いで参りましょう。